応神天皇は、第十四代仲哀天皇と神功皇后の第四皇子で、誉田別尊であります。ご在中、海人部、山部を定められたほか、韓や漢の人々の来朝や帰化するものが多く、外来人との交流を深められ、技芸や文学の興隆に尽くされました。
貞観元年(八五九)宇佐神宮より山城国石清水に勧請され、石清水八幡宮を祀られました。古代日本発展の神として国家国民の信仰を受けてまいりました。
御祭神
応神天皇
応神天皇は、第十四代仲哀天皇と神功皇后の第四皇子で、誉田別尊であります。ご在中、海人部、山部を定められたほか、韓や漢の人々の来朝や帰化するものが多く、外来人との交流を深められ、技芸や文学の興隆に尽くされました。
貞観元年(八五九)宇佐神宮より山城国石清水に勧請され、石清水八幡宮を祀られました。古代日本発展の神として国家国民の信仰を受けてまいりました。
配祀神
市寸島比賣命
明治はじめに八幡宮の境外地(南小路)にあった旧号『弁財天堂』(旧社地東十七間一尺南北十四間三尺)を合祀いたしました。
当八幡宮は宝永五年(1708)二月、翌六年(1709)三月、慶応二年(1866)四月、この三度の大火により、社殿等悉く焼失致しております。残存します文献また、相伝うところによると「人皇七十二代堀川院の寛治五年(1091)、奥州清原氏平定を果たした源義家が神恩に感謝して白鳥村(現村山市白鳥)に石清水八幡(いわしみずはちまん)を勧請(かんじょう)して祈願所にした」と、伝えております。
その後天正年間(1573-1592)には、谷地城主白鳥十郎長久(しろとりじゅうろうながひさ)公が谷地城築城の折、白鳥村より円福寺(えんぷくじ)とともに現在の地に遷し鎮守社といたしました。明治初年までは別当職円福寺をはじめ門徒寺六寺坊により真言宗をもって奉仕されてまいりました。
明治期には神仏分離とともに「郷社 八幡神社」と改称いたします。昭和十五年には「県社」に昇格。昭和三十四年「別表神社」に加列。社名を「谷地八幡宮」と改称いたしました。
昭和六十三年九月、皇太子・同妃両殿下(上皇・上皇后両陛下)におかせられましては全国育樹祭に御臨席の途次、当宮に行啓遊ばされ、御参拝の後内拝殿にて「林家舞楽」をご覧賜りました。
貞観二年(860)に、僧円仁(後の慈覚大師)が羽州山寺立石寺を開山した。この時、大阪市四天王寺の楽人林越前守政照が円仁に従って東国に下り、四天王寺の舞楽を山寺に伝えたと古記録に記される。
その後、林政照の子孫は山寺で例年舞楽を奉仕したが、室町時代に慈恩寺(寒河江市)に、さらに江戸時代初期に谷地に移り住み、山寺・慈恩寺・谷地八幡宮の舞楽を司り現在に至る。
この千百五十有余年の間、門外不出、一子相伝の家憲を固く守り、次々に長子に秘法を伝承している。
林家舞楽は早くに地方に下ったため、平安中期以降の楽制改革(日本化)の影響が少なく、よりシルクロードの面影をとどめていると評される。
嘉暦四年(1329)に描かれた林家秘蔵の舞楽図譜(県有形文化財)には、二十九曲描かれている。現在は十一曲を伝承し、山寺立石寺の臨時法会、慈恩寺は五月五日の一切経会、谷地八幡宮は九月の例大祭にて奉奏している。
昭和二十六年九月、谷地の舞楽保存会が結成され、地方唯一の伝統芸能の保存につとめ、昭和五十六年一月に「国の重要無形民俗文化財」に指定される。
平成三十年六月には日本遺産「山寺が支えた紅花文化」の構成文化財として、谷地八幡宮と共に指定を受けている。
昭和二十七年五月、高松宮殿下。
昭和三十五年五月十日、天皇・皇后両陛下の全国植樹祭行幸啓に際し、天覧を賜る。
昭和六十三年九月十九日には、皇太子・同妃両殿下当八幡宮へ行啓遊ばされ、内拝殿にてご覧賜る。
谷地八幡宮
ご例祭
九月敬老の日を含む三連休の土・日、境内石舞台にて奉奏(雨天時:社殿内舞台)
慈恩寺
一切経会
五月五日(こどもの日)、本堂前の特設舞台にて奉奏(雨天時:本堂内拝殿)